7月30日に時系列の整理に関する記事を書きましたが、とっ散らかってしまい、ちょっと分かりづらい記事になってしまいました。
ただいま、改めて時系列まとめを作っております。
そうしたらですね、また気になることが出てきてしまいました。
それが、この記事のタイトル通り、ラストシーンで2人が出会ったのは本当に春なのか?ということです。
ラストシーンでは、街の風景や、社会人となり自宅を出る瀧の背景に桜が咲いている描写があります。三葉も春物を着てます。
小説版でもはっきりと春、と書いてあるので、春なんだと信じて疑わなかったのです。
それなのに。
ラストシーンからエンディングへと流れる背景。
改めて映像を見てみると、『あるところ』から、背景が『霞がかった春の空』から、『入道雲がある夏の空』に。
そして日差しもなんだか夏っぽい。
順を追ってみてみましょう。
春ですよね。桜が舞ってますから。
春です。
出かける瀧。桜満開です。
並走する電車でお互いを見つけて、一気にクライマックスへ。
場面が切り替わります。
霞がかった春の空です。
ここまでが春の空です。
次のシーンで変わりますよ。
そしてここから。日差しの変化。夏っぽくなります。
ただし、人々の服装は春物。
瀧は電車を降りて、三葉を探し歩きます。
三葉も電車を降りて瀧を探します。
同じく、日差しが夏っぽくなっているのに、周りの人々の服装は春物。
樹々も緑濃くなっていて、夏っぽいです。
そしてこの入道雲!
須賀神社の階段ですれ違い、
『君の、名前は。』
日差しも真上からっぽくて、夏の雰囲気。
これはもう夏の空でしょう。
といった感じになります。
瀧と三葉がお互いを見つけた瞬間から、周囲の人々の服装なんかは『春』であるのに、背景、というか空だけ夏。
これって、意図的に、最後の最後だけ夏にしているのではないでしょうか?
主題歌にも『八月』という歌詞が登場しています。しかも2曲。
わざわざ八月という単語を入れてきてるわけですから、なにか関係あります。きっと。
『スパークル』
・・・万華鏡の中で 八月のある朝 君は僕の前で ハニかんでは澄ましてみせた・・・
『なんでもないや』
・・・でも君のいない 世界など 夏休みのない 八月のよう・・・
映画公開が8月だったこともあるので、ただ単に、そこに合わせ込んだだけなのかもしれませんが、心の内側の表現であるとか、造り手からのメッセージであるとか、なにかしら理由があるはずだと思うのです。
物語の始まりが秋で、ラストシーンが夏?
人生の春を過ぎて、梅雨明けして、夏?
考えがまとまってから記事にするべきなんですが、どうしてもまとまらないので、考察中、ということにしておきます。
一つ言えるのは、つながっているシーンでも、時系列ではない、ということが結構あるということです。
例えば、9月2日に最初に瀧が三葉になった時、自分の体が女の子になっていて、『えー!』のシーンのあとは、いきなり次の日、9月3日の朝(入れ替わっていない三葉本人)に飛んでますよね。
なので、演出的といいますか、表現的にといいますか、一連のシーンの中で、いきなり春から夏になるのもあり、ということが言えると思います。
まとめるつもりが余計とっ散らかりました。
あと何回か見たら、答えが見えてくるかもしれません。その時はまた書きます。
気づいたことなどありましたら、コメントください。













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